ルイザの妹メイが水彩画で描いたオーチャード・ハウス
写真:1650年頃から歴史を積み重ねてきたオーチャード・ハウスの建物。この水彩画は1860年頃、ルイザの妹・メイ(四女)が描いた

『若草物語(原題:Little Women)』の著者ルイザ・メイ・オルコット(1832~88年没)が暮らし、作品誕生および物語の舞台となった家、「ルイザ・メイ・オルコットのオーチャード・ハウスミュージアム(Louisa May Alcott’s Orchard House)」は、アメリカ・マサチューセッツ州コンコードに現存し、世界中から愛読者が訪れています。その歴史についてご紹介しましょう。

オーチャード・ハウスの名前の由来

1857年、ルイザの父エイモス・ブロンソン・オルコット(1799~1888年没)はコンコードに一家で暮らすための土地を購入しました。東京ドームの広さに匹敵する12エーカー(約15,000坪)の果樹園に囲まれた敷地内には、17世紀に建てられた2軒の古い建物があり、ブロンソンは果樹園(Orchard:オーチャード)にちなんで、それらの屋敷を「オーチャード・ハウス」と名付けました。

他者への思いやりが息づいた家の誕生(オルコット家が移り住むまで)

2軒の建物のうち、母屋は1650年頃、もう1つのL字型の建物は1690年頃に造られました。1671年頃、建物の最初の持ち主だったエドワード・ライトは、ジョン・ホア1の持っていた西コンコードの土地と交換し、ホアが新しい所有者になりました。当時は1620年のメイフラワー号による清教徒移住をきっかけに、ヨーロッパからアメリカ大陸への入植者がどんどん増えていた時代でした。1675年にはニューイングランド一帯で、先住民とイギリス入植者によるフィリップ王戦争2(1675~76年)が勃発します。捕らえられた先住民は家も食べ物もないディア島(Deer Island)へ送られ、多くの人が命を落としました。そこでホアは、マサチューセッツ州の裁判所で認可を得て、近郊に住む「ナショバ・プレイング・インディアン3」と呼ばれるキリスト教を信奉した大勢の先住民を敷地内に匿いました。

こうした歴史を踏まえて、当時の先住民が過ごした部屋に子孫の方たちを案内したり、ナショバ・インディアンのイベントに招かれるなど、今もオーチャード・ハウスとその子孫の方たちは、お互いの交流や関わりを大切にしています。

イギリスとの独立戦争(1775~83年)時には、コンコードは開戦の地の一つとなりました。そこで活躍したのが「ミニットマン4」と呼ばれる民兵たちでした。イギリス本国軍と戦うため、農夫たちがわずか1分程度で独立軍の招集に応じたことが名前の由来です。その時、オーチャード・ハウスを通りがかったイギリス兵たちが、飼育していた牛の搾乳入りバケツを略奪するということがあり、その蛮行に憤りを感じた住人がミニットマンとして参戦したと子孫の方は語っています。

その後、時を経て、オーチャード・ハウスで暮らすことになるオルコット一家は「他者へ親切にする」精神をとても大切にしていました。ルイザ自身も1862年に黒人奴隷制度をなくすため、南北戦争(1861~65年)の北軍従軍看護師に志願して戦地へ赴いています。偶然にもオルコット家が暮らす遥か以前から、オーチャード・ハウスには他者を思いやる精神が息づいていたことを示すエピソードが残されているのです。

オーチャード・ハウス前のオルコット家の人々
写真:オーチャード・ハウスとオルコット家(1865年頃)

1 John Hoare:弟レオナルド・ホア氏(Leonard Hoare)はハーバード大第3代学長
2 イギリスからの入植者たちと先住⺠たちの間で戦争が起きた時、たくさんの先住⺠たちが食べ物も住む家もないディア島(Deer Island)へ送られ、亡くなった。それを防ぐためにジョン・ホア氏は、マサチューセッツ州の裁判所に行き、正式に許可を得て、たくさんの「プレイング・インディアン」と呼ばれた先住⺠たちを自分の家の敷地(15,000 坪ほど)で匿い、多くの先住⺠たちが生き延びた。フィリップ王とはニューイングランド植民地連合軍と戦った先住民連合軍の指導者ワンパノアグ族の族長(メタコメット)の呼び名
3 キリスト教を信じ、祈っていた先住⺠たちの呼称
4 独立軍を支援した民兵たちのこと。招集がかかれば、わずか1分間で農民から民兵に代わって駆け付けたことが呼び方の由来

『若草物語』の誕生
ソローによるオーチャードハウス測量図
写真:ヘンリー・デビット・ソローが、ブロンソンが前所有者ジョン・B・モアから土地と家を購入するにあたり、作成したオーチャード・ハウスの測量図。ソローは当時コンコードの町の測量士でもあった(1857年)

こうしてアメリカ建国前から歴史を積み重ねてきた建物がオルコット家の手に渡った頃には、ルイザがオルコット家のリンゴの焼き菓子「アップルスランプ」(「煮崩れリンゴ」屋敷5)とニックネームを付けたほど、傷んで傾いてボロボロの状態でした。そんな誰もが薪にするしかないと思っていた家を1年かけて見事に修復し、母屋とL字型の建物を一体化したブロンソンの建築の才能に皆大変驚いたそうです。

修繕が終わった1858年7月、父ブロンソン、母アビゲイル(アバ)、姉アンナ(長女)、ルイザ(二女)、妹メイ(四女)がオーチャード・ハウスへ移りました。残念ながら4姉妹の三女エリザベスは引っ越す直前にしょう紅熱のため22歳の若さで亡くなり、オーチャード・ハウスで暮らすことはできませんでした。既に20回以上の引っ越し経験があったルイザは「できることなら今から20年は引っ越さない」と日記にその願いを記しています。

そして1867年、出版社から「女の子のための本を書いてほしい」という依頼を受けたルイザは、気乗りしなかったものの自分たち姉妹の体験を書いたらどうか、と思いつきました。翌68(明治元)年5月、執筆に取り掛かり、短期間で一気に402ページ(12章)となる作品(『若草物語パート1』)を書き上げます。こうして同年秋に『若草物語』が出版され、ルイザの作家として成功する夢が叶ったのです。

5家が古く傾いていたので、オーチャード・ハウスにルイザが付けたニックネーム。翻訳家の谷口由美子さんが「煮崩れリンゴ屋敷」と訳した

ミュージアム誕生まで

ルイザが日記に記した願い通り、1877(明治10)年まで、約20年間オーチャード・ハウスで暮らした後、コンコードのメインストリートにあるオルコット家と親交があった思想家ヘンリー・デビット・ソロー(1817~62年没)が暮らした家へと引っ越しました。ソローはコンコードにあるウォルデン湖のほとりに建てた小屋での暮らしを執筆した『ウォールデン森の生活(原題:Walden; or, Life in the Woods)』の著者です。ソローの家に引っ越して間もなく、母アバが亡くなりました。

そして1884(同17)年、ルイザはウイリアム・トーリー・ハリス6にオーチャード・ハウスを売却しました。教育者で哲学者でもあったハリスは、長年にわたる一家の友人で、1879(同12)年にブロンソンがオーチャード・ハウス書斎で始め、翌年敷地内に建てたヒルサイドチャペルで行ってきた「コンコード哲学学校」創設者の一人でもありました。しかしハリスは、1889(同22)年に教育局長官(現教育長官)に選ばれたため、ワシントンD.C.へと離れます。

1902(同35)年、オーチャード・ハウスの隣に住む児童文学者ハリエット・ロスロップ(作家名マーガレット・シドニー)7がハリスからオーチャード・ハウスを買い取りました。彼女はルイザをとても尊敬し、いつかオーチャード・ハウスをミュージアムとして残したいと考えていました。

その思いは1911(同44)年に実を結びます。ロスロップがオーチャード・ハウスを売却する意向があると知ったコンコード婦人クラブは、米国内の婦人クラブと世界中の『若草物語』愛読者へ手紙を送ってミュージアムを設立するための寄付を募りました。

その中には、遠くハンガリーに住む小さな女の子からの10セントの寄付や、週1セントのお小遣い5週分や、10日間のキャンディー分を貯めた子どもたち、やりくりで困窮するお年寄りの女性が生活費を切り詰めて用意した25セントなど、たくさんの温かい善意が寄せられました。こうしてオーチャード・ハウス売却額に必要だった$3,0008を大きく上回る$8,000もの寄付が集まりました。

オーチャード・ハウスがミュージアムになった頃のオーチャード・ハウスの前で撮られた写真。ドアのところにもたれかかっているのが、アンナの二男ジョン。
写真:ミュージアムになった頃のオーチャード・ハウスの前で撮られた写真。ドアのところにもたれかかっているのが、アンナの二男ジョン・プラット(ルイザの養子となった)(1912年)

そこで、コンコード婦人クラブはロスロップからオーチャード・ハウスを購入し、寄付金の残額$5,000をオーチャード・ハウス修復とミュージアム開館のための資金に充てました。そしてルイザ・メイ・オルコット記念協会(The Louisa May Alcott Memorial Association)を設立し、オーチャード・ハウスは記念協会の所有となり、ミュージアムとしてのスタートを切りました。

ミュージアム開館準備中には、ルイザの姉アンナの二男ジョン・プラット(ルイザの養子となった)がオルコット家で使っていた貴重な家具や所蔵品などを持ち込んでくれました。公式オープン前から見学に訪れる人が後を絶たず、1911年のゲストブックには1615人の来館者名が記録されています。そして翌12(同45)年5月27日、遂にミュージアムとして公式にオープンしました。

6 William Torrey Harris:教育者・哲学者でオルコット家の古くからの友人。ブロンソンのコンコード哲学学校の創設者の一人
7 Harriet Lothrop(ペンネーム Margaret Sydney):“Five Little Peppers and How They Grow”を書いた児童文学者。ルイザを大変尊敬し、オーチャード・ハウスをミュージアムとして残したいと思っていた
8 1911年の$3,000は2024年の約$98,000=14,780,000 yen;1911年の$5,000は2024年の約$163,000=24,577,000yen;1911年の$8,000は2024年の約$260,000 =39,203,000yen

日本との関わりと現在の活動

現在オーチャード・ハウスミュージアムには世界各地から『若草物語』の愛読者が訪れ、特に海外からは日本の来館者が最も多くなっています。

公式オープンした1912年のゲストブックには既に日本人来館者の名前を見つけることができました。

オーチャード・ハウスを訪れ、ルイザの部屋でジェーン・ゴードン館長(当時)からご説明を受ける美智子さま(1987年10月3日)ルイザ・メイ・オルコットのオーチャード・ハウスミュージアム提供
写真:オーチャード・ハウスを訪れ、ルイザの部屋でジェーン・ゴードン館長(当時)からご説明を受ける美智子さま(1987年10月3日)ルイザ・メイ・オルコットのオーチャード・ハウスミュージアム提供

また、ルイザ・メイ・オルコット記念協会の1931(昭和6)年の議事録に、高松宮ご夫妻訪問が残っていました。高松宮ご夫妻は前年のご成婚後間もなく、昭和天皇の名代としてイギリス・スペインの公式訪問を含む欧米20カ国以上14カ月に及ぶ外遊中だった31年4月に米国に立ち寄られています。当時の週刊紙コンコード・エンタープライズ(同29日号)やボストン・グローブ紙には同26日に立ち寄られた時に、妃殿下の喜久子さまに、ルイザの甥フレデリック・オルコット・プラットの妻、ジェシカ・ケイト・プラットから『Little Women』の本が贈られたという記事が掲載されていました。

1980(同55)年頃には、当時ハーバード大学・大学院の法学部で客員教授だった皇后雅子さまの父である小和田恒氏が、家族でオーチャード・ハウスを訪れたと大学同僚に語っていたそうです。

1987(昭和62)年10月3日には、国際親善のために米国訪問中の皇太子ご夫妻(現在の上皇・上皇后両陛下)が訪れて館内を視察し、スタッフや地元住民と交流されました。

現在もオーチャード・ハウスミュージアムでは、来館者のためのオルコット家の暮らしを知ることができるツアーや特別プログラムの他、夏のコンコード哲学学校、オルコット家が行ってきた子どもたちとの様々なボランティアを引き継ぎ、19世紀のオルコット家の精神を学ぶことができる生きた博物館として活動しています。


執筆

ミルズ喜久子(オーチャード・ハウスミュージアム特別プロジェクト担当、若草物語クラブ会長)

取材調査協力・資料提供

オーチャード・ハウスミュージアム:Louisa May Alcott’s Orchard House

Jan Turnquist(館長、若草物語クラブ名誉会長)

Maria Powers(副館長)

Lowell S. Smith and Sally Sanford(*Lowell S. Smith理事会会計、Sally Sanford ; Lowell S. Smith氏の妻)

コンコード公共図書館ウイリアム・モンロー特別コレクション室:The William Munroe Special Collections at the Concord Free Public Library

Anke Voss and another staff.

編集:住井麻由子(若草物語クラブ事務局長)