『若草物語』のモデルとなった作者ルイザとオルコット家の紹介


『若草物語』に登場するマーチ家の人々は、ルイザとその家族がモデルになっています。

ルイザの養子となったジョン・プラット・オルコット(ルイザの姉でオルコット家・長女アンナの息子)は「『若草物語』は、我が家の私たち家族の物語です」と後に語りました。

さて、オルコット家の四姉妹と両親はどんな人物だったのでしょうか。皆さまにご紹介します。

エイモス・ブロンソン・オルコット     

Amos Bronson Alcott(1799年11月29日~1888年3月4日)
ブロンソン・オルコット

ルイザ・メイ・オルコットの父、ブロンソンは『若草物語』のマーチ家の父、マーチ氏のモデルです。

1799年、コネティカット州の農家に生まれた彼は、教育に対し、強い思いを抱いて育ちました。そして教師になるため独学で勉強に取り組み、のちに教育者であり、超絶主義の哲学者・思想家になりました。

ブロンソンの指導方法は、当時の一般的なやり方とは全く違い、進歩的でした。子どもの内側からでてくる心の高まりや興味の発達、人と自然の繋がりに基本思想をおいたもので、理想的で風変わりと捉えられることもあり、その指導方法には苦情が寄せられ、失敗もありました。

しかし、理解者にも恵まれました。コネティカットのブルックリンで牧師をしていたサミュエル・J・メイがブロンソンの教育に関心を持ったことで、彼の妹であるアバと出会います。そして1830年5月23日、アバと結婚しました。

その後も彼の教育者としての思いに賛同した人たちの支援によって、理想の教育に取り組みますが、当時の多くの人にはその指導は進歩的すぎて受け入れられず、何度も学校を閉校することを余儀なくされます。

そのため、何度も一家は引っ越しを繰り返しました。その中には、友人で超絶主義の哲学者・思想家のラルフ・ウォルドー・エマソンの誘いを受けてコンコードへ引っ越します。この家はのちに『続 若草物語』のメグの新婚の家「鳩の家」として広く知られることとなります。

理想を追求するブロンソンを妻アバは献身的に支えましたが、家計は苦しく、大変な苦労をしました。当時ブロンソンの先進的な教育理論はイギリスで、より高く評価されていました。ブロンソンは思考・美点・ライフスタイルを分かち合い、家族の枠を広げることで互いの高尚な精神を目覚めさせ、目的を達成できると考え、イギリスの改革者たちと実験的共同生活を始めます。しかし43年6月に、マサチューセッツ州のボストンから北西に40㎞ほど離れた自然豊かな町で「フルートランズ」と名付けて開始した共同生活体は、秋の暮れには食べ物も薪も足りなくなり、冬をこせないまま失敗に終わりました。

この後も、オルコット一家は度々引っ越しを繰り返さなくてはいけませんでしたが、ブロンソンはエマソンの家をよく訪れ、書斎で話し込んでいました。二人は互いに影響しあい、常に哲学的な刺激を与えあう関係となっていました。しかし、教師の仕事をなかなか見つけられず、哲学的な座談会を開いたり、中西部へ講演旅行に出かけるなどしましたが、そこから得られた収入は厳しいものでした。それでもブロンソンは理想と希望を捨てることはありませんでした。

そして57年、コンコードの広大な果樹園の敷地に囲まれた建物を手に入れます。ブロンソンが果樹園(オーチャード)から名付けた屋敷「オーチャード・ハウス」は17世紀半ばに建てられたもので、ボロボロの状態でした。しかし、ブロンソンはそれを改造して哲学者の城にしようと取り組みます。窓を大きく広げ、建物をつなぎ、ブロンソンの芸術的嗜好も取り入れ、1年がかりでよみがえらせた建築の才能に、人々はとても驚きました。

こうして翌58年3月、オルコット一家は改修を終えたオーチャード・ハウスに引っ越してきました。生活苦で何度も引っ越しを繰り返した一家は、ようやくこの家でしばらく落ち着いて暮らせることとなりました。

59年、ブロンソンはコンコードの教育長となります。給料はわずかでしたが60歳にして初めて教育の分野で才能を認められたのでした。『続 若草物語』の中には、マーチ氏が体を使ってアルファベットを教える場面がありますが、これは実際にブロンソンが行った方法でした。教科書などにはとらわれず、それぞれの子に合った読書が最も大切だと考えていました。後に教育現場の多方面で、こうしたブロンソンの学習に関する理論が実現しています。

77年、オルコット一家は、超絶主義の哲学者・思想家で交流のあった故ヘンリー・デイヴィッド・ソロー(『ウォールデン森の生活』著者)の家を購入し、オーチャード・ハウスから引っ越します。

79年7月15日、オーチャード・ハウスのブロンソンの書斎で、長年の夢だった「コンコード哲学学校」が始まりました。翌年にはオーチャード・ハウス裏にヒルサイド・チャペルと名付けられた建物を造り、そこでコンコード哲学学校が行われるようになります。文化的なイベントや倫理、道徳、女性学、文学、美学などの講義が行われたこの学校は、アメリカにおける成人教育のはしりであるだけでなく、最初の大きな成功例となりました。

こうした大きな功績によって、ようやく社会的評価を受けることができましたが、82年脳卒中で倒れます。以後書くことや話すことがままならなくなってしまい、88年3月4日に亡くなるまで家族から手厚い看護をうけ、幸せな余生を過ごしました。

アビゲイル・メイ・オルコット

Abigail May Alcott(1800年10月8日~1877年11月25日)
アビゲイル・メイ・オルコット(アバ)

『若草物語』4姉妹の母、マーチ夫人のモデルであるアビゲイル(以下アバ)は、1800年ボストンでジョセフ・メイ大佐夫妻の末っ子として生まれました。

メイ家は、ボストンのキングズ・チャペル教区では慈善事業で広く知られ、熱心な奴隷制廃止論者でもありました。アバ自身も、奴隷解放や女性の参政権の実現などを志す熱心な社会改革者で、ルイザと共に不公平な政治への反対署名をしたり、53年には友人と共に女性に職業の門戸を開くようマサチューセッツ州へ請願書を送ったりしています。

30年、ブロンソンと結婚しました。夫ブロンソンは、子どもたちの教育や助けが必要な人たちへの支援に没頭するあまり、家計が苦しいことに気が付かないこともあり、アバは家の切り盛りで苦労しました。しかし、当時女性としては高等な教育を受けて育ったアバは、ブロンソンの教育に対する理念に深く共感し、尊敬し愛する夫の役に立ちたいと考えていました。有能な母であり、主婦であり、時には稼ぎ手として、理想主義者で哲学者の夫の良き理解者であり続けました。ブロンソンが、講演旅行からお腹を空かせ、たった1ドルの収入を持って夜遅くに疲れ切って帰ってきたときには、嬉しそうに顔を輝かせてキスをし、「あなたが無事にお帰りになったのですもの。他に何もいりませんわ」と言って迎えたそうです。

ボストンでは貧民救済施設を作りました。アバはアメリカ初のソーシャルワーカーの一人とみられています。当時のボストンには、ジャガイモ飢饉により移住してきた沢山の貧しいアイルランド移民や浮浪者、捨て子などの孤児があふれていました。アバは裕福な団体の支援を受けて、こうした貧しい家を訪問しては職を探し、食料品や生活必需品、聖書などを分け与えました。また、家政婦紹介所を開くなど、アバの救済事業はオルコット家の家族に、自分たちよりも恵まれない境遇の人々を思いやる気持ちを育てました。

長年の心労と高齢のため体力を落としていたアバは、オーチャード・ハウスから引っ越したソローの家で77年11月25日、冷たい雨の降る日の夕方、ルイザの腕に抱かれて息を引き取りました。

ルイザは、母のアバとマーチ夫人について「マーチ夫人は真実そのままです。ただ本物のお母様の半分も素晴らしく書けてはいない」と日記に書いています。

アンナ・ブロンソン・オルコット

Anna Bronson Alcott Pratt(1831年3月16日~1893年7月17日)
アンナ・オルコット

1831年、ペンシルベニア州のジャーマンタウンで『若草物語』のメグのモデルとなるオルコット家の長女アンナが誕生しました。

ブロンソンと同じく穏やかで読書好き、歴史に興味を持っていました。10歳までには縫い物や食事の支度、掃除、赤ちゃんの世話までできるようなとても家庭的な子どもでした。

父から教育を受け、アンナも教師の職に就くことになります。アンナはルイザとともに演劇に情熱を燃やしていました。オルコット家と親しくしていたプラット家の青年ジョンも参加していたコンコード・ドラマティック・ユニオンで二人は劇『恋人を貸します』で恋人役を演じ、現実世界でも恋に落ちます。

60年5月23日、両親の結婚30年記念日に2人は挙式します。その時に着用したウェディングドレスと結婚証明書は今もオーチャード・ハウスミュージアムに保管されています。みんなが踊ったシーンなどその時の様子は、『続 若草物語』のメグの結婚式での中でそのまま描かれています。

63年に長男フレデリック・オルコット・プラットが、65年に二男ジョン・スーウェル・プラットを授かります。しかし70年、夫ジョン・プラットが亡くなり、アンナはオーチャード・ハウスに戻ってきました。この二人の息子はオーチャード・ハウスがのちにミュージアムになる時に支援しました。今もその子孫たちが二人の遺志を引き継いでいます。

ルイザ・メイ・オルコット

Louisa May Alcott(1832年11月29日~1888年3月6日)
ルイザ・メイ・オルコット

『若草物語』の作者であり、作品中のジョーのモデルでもあるルイザは、長女アンナと同じペンシルバニア州ジャーマンタウンでブロンソンの33歳の誕生日に生まれました。ブロンソンが母に書いた手紙によると「アンナが生まれた時よりずっと大きく、元気でよく太った赤ん坊」でした。

顔つきも性格もよく似ていたこともあり、特に母親アバと結びつきが強く、アバも「おまえと私はいつも一緒が好きだったわね」とルイザに書いたことがあったほどです。

少女時代には、ラルフ・ウォード・エマソンの図書室を訪れたり、ヘンリー・デイヴッド・ソローと自然を散策したり、ヒルサイドの納屋で演劇を演じたりしながら、教育的で哲学的な日々をマサチューセッツ州のボストンやコンコードで過ごしました。

ジョーのようにおてんばで、「どんな男の子とも競争で勝たなければ友達にならない。女の子だって、木登りや柵を飛び越えたりするおてんばじゃないと友達にならない」と宣言するほど活発な子どもでした。ある晩には、知らない家の戸口でぐっすり眠っているところを、迷子になったことを心配して探しにきた人に連れ戻されたこともありました。

常に家計のやりくりに苦しんでいた一家のために、15歳のルイザは「家族を助けるために何でもする。教師、裁縫、演劇、書く……。何でもいい、死ぬまでに有名になってお金持ちになり幸せになる」と決心しています。女性の職業があまりなかった当時の社会の中で、お針子や家庭教師など、家族のためにあらゆる仕事をしました。

ルイザは物語を作ることと、演じることに情熱を持っていて、その豊かな想像力は姉妹や友人たちと演じる脚本のもとになりました。劇の中では悪役や幽霊、盗賊など、不気味な役を演じることを好んでいました。

8歳の時、『一番乗りのコマドリさんへ』という詩を書き、それを読んだアバはルイザの文才を認め、「この子はシェイクスピアになるわ!」と喜び、書くことを推奨しました。20歳の時には初めて短編小説が人気雑誌に掲載され、22歳の時に初めての本『花のおとぎ話』が出版されました。

作家として認められるきっかけは、62年に南北戦争でワシントンDCの病院で従軍看護婦として働いた経験を活かして書いた『病院のスケッチ』でした。そこで出会った勇敢な兵士たちの生き生きした描写と、ユーモアや思いやりがあふれたこの作品は「私が初めて成功した本」になりました。

67年、ロバーツ・ブラザーズ社のトマス・ナイルズから少女向けの物語を書いてほしいと依頼がありました。ルイザは「女の子なんか好きではないし、自分の姉妹たち以外に知っている女の子も少ないけれど、自分たち姉妹をモデルにしたら面白いものが書けるかもしれない」と考え、ブロンソンが彼女のために作った自室の机で『若草物語』の執筆を始めました。翌68年『若草物語』は出版されるやいなや、瞬く間に大評判になりました。

ルイザは生涯に少なくとも30冊以上の本と、短編小説や詩を出版しました。そしてブロンソンの死からわずか2日後の88年3月6日に後を追うように亡くなりました。現在もコンコードのスリーピー・ホロー墓地に埋葬されています。

エリザベス・スーウェル・オルコット

Elizabeth Sewall Alcott(1835年6月24日~1858年3月14日)
エリザベス・スーウェル・オルコット(ベス)

ベスのモデルである物静かで内気な三女エリザベス(ベス、ベティー、リジーなどの愛称がある)は、1835年ボストンで生まれました。

ルイザはベスについて『若草物語』の中で、穏やかな「ベス・マーチ」として、バラ色の頬、滑らかな髪、明るい目、内気な性格と声、その温和な表情を取り乱すようなことが滅多にない女の子として描きました。父ブロンソンは彼女を「小さな天使(Little Tranquillity)」と呼びましたが、それは彼女にぴったりの愛称でした。自分だけの世界で幸せに過ごし、心から信頼し、愛する人たちのために会うようにしていたからです。

家族と過ごすこと、動物(なかでも子猫)が大好きでした。音楽も愛し、ピアノを弾くことが上手でオーチャード・ハウスミュージアムにも飾られているメロディオンがお気に入りでした。縫い物や編み物も得意でオーチャード・ハウスにはベスの手作り人形も残っています。

作品中と同じく、気の毒な貧しい家庭の人から猩紅熱をもらってしまい、家族でオーチャード・ハウスに引っ越す直前の58年3月14日に亡くなりました。 

ベスの死後、ルイザは日記に次のように書いています。

「彼女がいなくなって、思っていたほど寂しいと感じていない。彼女が以前より近く、愛おしく思えるから。そして彼女の罪のない魂が痛みから守られることを嬉しく思う」

メイ・オルコット

[Abba] May Alcott Nieriker(1840年7月26日~1879年12月29日)
メイ・オルコット

オルコット家の末娘メイはマサチューセッツ州コンコードで生まれました。母の名をとってアビゲイル・メイと名付けられましたが、じきにアビィと呼ばれるようになります。そして「メイ」の方が洗練されていて良いと思うようになり、メイと呼んでもらうようになりました。『若草物語』ではMayを並べ替え、四女Amy(エイミー)となっています。

メイは幼い頃から上品で芸術的、そして美しいものを愛する金髪で青い瞳の女の子でした。

一家が暮らしたオーチャード・ハウスには、メイが絵を描けるアトリエもこしらえられました。また、両親もその才能を認め、当時紙が貴重だったこともあり、部屋の壁にスケッチすることを認めていました。メイの描いた絵は現在もオーチャード・ハウスミュージアムで見ることができます。

ウォルデン湖やコンコード川などの牧歌的風景やコロニアル風の建物といったコンコードの風景が絵筆に捉えられて、メイの絵の腕前はぐんぐんあがり、68年に出版された『若草物語』初版の挿絵を担当したり、69年には『コンコードのスケッチ』を出版しました。

芸術的な才能は周囲からも認められ、ボストンで美術を学ぶ機会に恵まれ、コンコードでは美術を教えました。教え子の1人、ダニエル・チェスター・フレンチは、コンコードのミニットマン像やワシントンDCのリンカーン大統領の像、ハーバード大学構内のジョン・ハーバード像を手掛けるなどのちに大変有名な彫刻家になりました。

また姉妹の中では一番社交的でした。ルイザが『若草物語』で大成功を収めたことで、メイが夢見ていたロンドン、パリ、ローマなどへ美術の勉強に行くことが70年、ついに実現しました。その後も2度ヨーロッパ旅行の機会が与えられています。

メイは有名な水彩画家ジョセフ・ターナーの模写が大変得意でした。そして77年には、パリの画廊で静物画が展示され、「なんて幸運なの。ルイザだけがオルコット家の才能を独り占めしているのではない証拠だわ」と書いています。ルイザに敬意を表して描いた「静物とフクロウ」もロンドン婦人博覧会に選ばれました。

78年3月22日、スイス人の青年実業家で音楽家のアーネスト・ニーリカーと結婚しました。79年11月には娘を出産し、姉にちなんでルイザ・メイ(愛称ルル)と名付けます。しかし、産後のひだちが悪く、ルルが生まれてから7週間後の12月29日にこの世を去ります。遺言により、ルルはルイザに託されました。


執筆:髙橋穂南(『若草物語』が世界で一番大好き・若草物語クラブ書記)

編集:ミルズ喜久子(ファクトチェック担当・若草物語クラブ会長)、住井麻由子(文構成担当・若草物語クラブ事務局長)